特集
佛通寺ってこんなとこ!
禅界随一の秘境!
佛通寺は、禅界随一の秘境として知られる臨済宗佛通寺派の大本山(総本山の下にあって、所属の末寺を統括する寺院)です。往時(おうじ)(その昔、栄えていた様子を思い浮かべるときに使われることが多い)は京都五山(臨済宗の寺院の寺格で、別格とされる南禅寺とともに定められた京都にある五つの禅宗の寺院)上位の南禅寺と同格に遇され、山内に88ヶ寺・末寺は全国に3000ヵ寺に及ぶという広大な規模を誇っていました。
参道脇には、永徳院(ようとくいん)・肯心院(こうしんいん)・正法院(せいほういん)の塔頭(たっちゅう)(禅宗寺院で、祖師や門徒高僧の死後その弟子が師の徳を慕い、大寺・名刹に寄り添って建てた塔<多くは祖師や高僧の墓塔>や庵などの小院)があり、紅葉の頃には特に美しい風情があります。参道右手のうっそうとした杉木立の石段(含暉坂(がんきざか))を登ると、開山堂と国の重要文化財に指定されている地蔵堂があり、創建当時のたたずまいが偲ばれます。
羅漢槙(らかんまき)と呼ばれるイヌマキの大木横の巨蟒橋(きょもうきょう)を渡ると山門・法堂・本堂・庫裡(くり)等の建物があります。 ここには、かつて雪舟(憧れの中国で水墨画の技法を学び、独自の山水画を確立した日本美術史の巨匠)が滞在したと伝えられる篩月(しげつ)庵の跡地もあり、また、流浪の俳人山頭火は「あけはなつや満山のみどり」の句を残しています。
佛通寺山内は、自然環境に恵まれ、参拝参禅、歴史探訪など四季を通じて、多くの参拝者、観光客が訪れています。佛通寺一帯は、山紫水明の自然環境に恵まれ、参拝や座禅など四季を通じて好適地です。とくに新緑と紅葉時期の景観はすばらしく、県内屈指の名所として多くの参拝者や観光客が訪れています。新緑時期には淡緑、紅葉時期には、黄色、朱色、赤色など色とりどり見事に色づき楽しませてくれています。
歴史~600年を超える古刹~
佛通寺は,應永4年(1397年)安芸の国沼田(ぬた)荘の武将・小早川春平公が※1 愚中周及(ぐちゅうしゅうきゅう)(佛徳大通禅師)を迎え創建した臨済宗の禅刹(ぜんさつ)(禅宗の寺。禅寺。禅院)です。 金蘭豪華な京都金閣寺に対峙し、侘び寂びの質実さを求めて造られています。佛通寺の名称は,愚中周及の師である即休契了(そくきゅうけいりょう)を勧請開山(かんじょうかいざん)( 本来その寺の 開山 でない僧を開山として信仰すること)とし, 彼の諡号(しごう)(佛通禅師: 徳の高い人や高い地位の人などが死後に、生前を称えておくる名前。おくりな)を寺名にしたことを起因としています。
佛通寺は,小早川家一族の帰依(きえ)(神仏や高僧を信じてその力にすがること)を受けて瞬く間に寺勢は隆昌し,最盛期には 山内の塔中88ヵ寺,西日本に末寺約3千ヵ寺を数えるに到っています。
しかし,応仁の乱(1467年~1477年。足利将軍家の権威・権力が失墜したことにより起きた、室町幕府内の長きにわたる政治抗争の結末。細川氏率いる東軍と山名氏率いる西軍が、幕府の主導権をめぐって争った)の後に荒廃にむかい,毛利元就の三男・※2小早川隆景の治世になって やや再興したものの,関ケ原の戦いで敗れた毛利一族に代わり安芸の国の領主となった福島家(のち改易)によって焼き討ちに遭い、続いて領主となった浅野家の庇護はあったものの, しだいに当時の面影を失っていったのでした。
明治期に入ると一転して法灯(ほうとう) (仏の正法が 世 の 闇 を照らすことを 灯火 にたとえていう語)は大いに挽回され、明治38年 初代管長の寛量思休(かんりょうしきゅう)禅師のもと臨済宗佛通寺派として天龍寺から独立復旧し, 参禅道場をもつ京都以西で唯一の大本山(だいほんざん)として今日に到っています。
山号は御許山(おもとさん)。本尊は釈迦如来。中国三十三観音霊場第十二番札所、山陽花の寺二十四か寺第二十一番札所。
※1愚中周及(ぐちゅうしゅうきゅう)(佛徳大通禅師) 愚中周及は, 美濃(岐阜県)で生まれ, 13歳の時に 夢窓疎石(天龍寺の開山)の下で修行し, 後に春屋妙葩の下で修行した。 19歳の時に中国(元の時代)に渡り(1341年)、ついで 金山寺(中国湘江省)の住職であった 即休契了(佛通禅師)の下で約10年間修行に励まれ、その法を嗣(つ)いだ。 中国から帰国後(1351年), 京都の五山叢林(ござんそうりん)(室町幕府 が制定した 寺格制度 である 五山 十刹 諸山 の制度に組み込まれてその保護・統制下に置かれていた 禅宗 寺院 ( 禅林 )のこと)を嫌い, 丹波(現在、京都府福知山)の天寧寺において多くの弟子の育成を 行った。小早川春平の要望に応えて佛通寺を創建(1397)するとともに弟子の育成にあたった。応永16年(1409年)87歳天寧寺にて示寂(じじゃく)(高僧などが死ぬこと)し、佛徳大通禅師 と諡号(しごう)( 貴人・僧侶などに、その死後、生前の行いを尊んで贈る名)された。
※2 小早川(こばやかわ) 隆景(たかかげ) 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。竹原小早川家第14代当主。毛利元就の三男で、兄弟に同母兄の毛利隆元・吉川元春などがいる。竹原小早川家を継承し、後に沼田小早川家も継承して両家を統合。吉川元春と共に毛利両川として戦国大名毛利氏の発展に尽くした。毛利水軍の指揮官としても活躍している。豊臣政権下では豊臣秀吉の信任を受け、文禄4年(1595年)に発令された「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条において秀吉に五大老の一人に任じられた。実子はなく、木下家定の五男で豊臣秀吉の養子となっていた羽柴秀俊(小早川秀秋)を養子として迎え、家督を譲っている。特に豊臣秀吉の信頼は厚く、事実上毛利氏の主導者であった。
佛通寺歴史年表
1397年 | 小早川春平公が愚中周及禅師を招いて佛通寺を創建する |
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1403年 | 瀬戸田に向上庵(現:向上寺)を建立する |
1406年 | 春平の妻松岩尼が含暉院を興造する |
1408年 | 覚隠眞知が住持となり,愚中周及禅師は将軍義持の懇請により京に行く |
1409年 | 愚中周及禅師紫衣を賜る。8月示寂,佛徳大通禅師と諡号される |
1411年 | 含暉院の佛殿が建立される |
1416年 | 本寺の佛殿が建立され,本尊が安置される |
1423年 | 佛通,天寧両寺の住持の交代要員が定められる |
1436年 | 含暉院を除く諸堂宇が焼失する |
1439年 | 本寺の佛殿が再建される |
1441年 | 将軍家祈願所となる。住持の輪番規定が定められる |
1508年 | 大通禅師百年忌 |
1511年 | 「佛通禅師住持記 法」が成立する |
1550年 | 小早川隆景が沼田小早川家の養子となり,佛通寺の外護者となる |
1600年 | 福島正則が寺領を没収する |
1603年 | 福島氏から58人の扶持米と紙子代78石を給与される |
1608年 | 大通禅師200年忌 |
1619年 | 浅野氏が領主となり,佛通寺の外護者となる |
1708年 | 大通禅師300年忌 |
1808年 | 大通禅師400年忌 |
1874年 | 住持の輪番制が廃止され,養堂文拙が単独で住持となる |
1876年 | 天龍寺派に属する |
1903年 | 大通禅師500年忌 |
1905年 | 天龍寺から独立,佛通寺派となる |
1997年 | 大通禅師600年忌 |
2001年 | 開基小早川春平公600遠年諱法要 |
2002年 | 佛通禅師修復開眼供養 |
ちょっと勉強
禅宗ってどんな宗教?
仏心宗、達磨宗とも呼ばれる、いわゆる禅宗は中国で起こり、発展し、やがて日本に伝来された仏教の一宗です。日本に伝わった禅宗には、臨済宗 [りんざいしゅう]や黄檗宗 [おうばくしゅう]、そして曹洞宗 [そうとうしゅう] があります。 臨済宗や黄檗宗は、お釈迦さまの正しい教え(正法)をうけつがれた達磨大師(初祖)、臨済禅師(臨済宗祖)や、隠元禅師(黄檗宗祖)、さらに禅を日本に伝来された祖師方、そして日本臨済禅中興の祖・白隠禅師 [はくいんぜんじ] から今日にいたるまで、「一器の水を一器へ」移すがごとく伝法された一流の正法を教えとし、我々に本来そなわる尊厳で純粋な人間性(仏性[ぶっしょう])を、坐禅・公案・読経・作務などの修行を通して、自覚(見性)することを旨とする宗派です。
宗祖臨済禅師には
「赤肉団上 [しゃくにくだんじょう] に一無位 [いちむい] の真人 [しんにん] あり。常に汝等諸人 [なんじらしょにん] の面門 [めんもん] より出入す。未だ証拠せざる者は、看 [み] よ看よ」 という言葉があります。臨済宗の宗旨は、我々に本来そなわる、この一無位の真人を自覚することです。この臨済禅師の言行録は『臨済録』として伝えられ、語録の王と言われます。
仏心宗
仏心宗と呼ばれるのは、禅宗が、文字や経典をたよらずに、仏の心(正法 [しょうぼう] )を、師匠から弟子へと直接伝えていくことを根本宗旨としているからです。その起源は、有名な「世尊拈華微笑 [せそんねんげみしょう] 」という故事に始まります。 ある時、お釈迦さま(釈迦牟尼仏)が、霊鷲山 [りょうじゅせん] という山に八万のお弟子をお集めになられました。 そこでお釈迦さまは、梵天(インドの神様)が献じられた金波羅華 [こんぱらげ] を手に取り、八万人ものお弟子に示されました。しかし、お弟子はその意味を理解することができませんでしたが、ただ、摩訶迦葉尊者 [まかかしょうそんじゃ] のみが破顔微笑されました。そこで、お釈迦さまは「我れに正法眼蔵 [しょうぼうげんぞう]、涅槃妙心 [ねはんみょうしん] あり、摩訶迦葉に付嘱 [ふしょく] す(我が仏心を摩訶迦葉に授けよう)」と言って、正法を伝授されました。 これが禅宗における師資相承 [ししそうじょう] (師匠から弟子への正法の直接伝達)の始まりと言われます。お釈迦さまのことを、臨済宗では、「大恩教主本師釈迦牟尼世尊」とお呼びして尊崇しています。
達磨宗
達磨宗とは、お釈迦さまから28代目の祖師である菩提達磨大師 [ぼだいだるまだいし] の名前から来ています。達磨大師は、インドから中国に渡られ、嵩山少林寺 [すうざん しょうりんじ] というところで面壁 [めんぺき] 九年の坐禅を修行され、「不立文字 [ふりゅうもんじ]、教外別伝 [きょうげべつでん]、直指人心 [じきしにんしん]、見性成仏 [けんしょうじょうぶつ] 」の宗旨を標榜され、禅宗の初祖と仰がれています。達磨大師の「不立文字、教外別伝…」の意味も、文字や経典をたよらずに、仏の心(正法)を、師匠から弟子へと直接伝えていくということです。つまり、達磨大師の正法をさかのぼれば、お釈迦さまに行き着くことになり、達磨大師の正法は、お釈迦さまの正法と同じということです。